これは、まだキーコとライチが高等部に上がったばかりの時のことである。
その日はよく晴れていた。夏も終わろうとする時期の、最後の足掻きのように暑い日だった。
あー、とキーコはうんざりとして空を仰いだ。昼に差し掛かった時刻、太陽はほぼ真上から燦燦と降り注いで中庭の緑を光らせている。真夏のように光る芝に目を細めて一つ欠伸を溢した。
今日は何もしたくない、と使い魔の一人であるサッハを身代わりに全ての授業を欠席したのでどこへでも行ける。さて何をしよう、ケンタウルスのフィレンカのところへお茶でもしに行くか、それともグリフィンのガーラをからかいに行くか、ああ、久し振りに母親に会いに行ってもいいな、……見つかるかわからないけど。つらつらと考えながら歩き回っていたキーコだったが、視界の隅に一つ影を認めて足を止めた。まじまじと人影を見つめ、誰だかを知るとニヤリと笑う。いい暇潰しを見つけた、と足取り軽くそちらへ向かった。
*
「よう、ライチ」
掛けられた声に肩を跳ねさせ、ギギギ、と軋みながら振り向いたライチは、予想通りの人物が自分に笑いかけているのを知って深く溜息を吐いた。
「……キリコ」
「キーコと呼べよ」
「何の用だ」
唇を尖らせるキーコを黙殺して、とにかく用件を済ませてしまおうと訊ねると、キーコは胸を張って「暇だから付き合え」と堂堂と宣った。
「は?」
「君もどうせ授業に出ないんだろ? どっか行こうじゃないか」
「断る離せ俺は図書館に行ってから森に行くん……あ」
しまった、と口を押さえた時には遅かった。にんまりとした笑顔が目の前にあり、対照的にライチの顔は青褪めていく。
「ほーう、そうかそうか、図書館に行って? 森に行くのか」
「…………」
「なあライチ、私の言いたいこと解るだろ?」
「……拒否権は」
「ない」
当たり前のこと訊くなよ、と言わんばかりに首を振るキーコをライチは睨んだ。冗談じゃない、このままでは自分の癒しの時をぶち壊しにされてしまう。それだけはごめんだという、無言の訴えだった。
しかしキーコもこうなったら引けないのである。面白いことにはすべからく首を突っ込むべしというのが彼女の掲げるモットーであり、また自分が気に入ったものはとことん構い倒す悪癖とも言える癖があるのだ。己を熟知しているキーコがそれに逆らうはずもなかった。
「観念しろよライチ。さあ私に付き合え。それが無理なら私を付き合わせろ」
「嫌だ」
「その選択肢はない」
「……じゃあ、図書館に付き合え。それからはお前に付き合ってやる」
「ふむ」
ライチとしては苦肉の策だった。森にある自分の、自分だけの隠れ家を他人に踏み荒らされるのはどうしても嫌だったのだ。たとえそれが、この学園に入学してから何かとつるみ、気付けば最も長く交友関係を続けているキーコだとしても。
ライチが息を詰めて自分の判断を待っているとは露ほども思わず、キーコは呑気にどうしようか考えていた。ほんとうに今日は暇なのだ。天気もいい。図書館で一日を潰す気がないらしいライチを引き連れて外を回るのも悪くない。
「うん、じゃあそうしようか」
「……そうか」
「ん? ライチ、君なんだか顔色が悪いぞ。ちゃんと食べてるのか?」
「誰のせいだと……」
飄飄と顔を覗き込んできたキーコを一睨みして、ライチはその先の言葉を溜息に変えた。言ったところでまたカラカラと笑われてお仕舞いなのだと悟っている。その程度の付き合いにはなっていた。
「ふむ? まあいいや。行くんだろ、図書館」
「……そうだな、行くか」
そうして、二人は連れ立って図書館へ足を向けた。
*
図書館は、当たり前だが閑散としていた。司書の訝しげな目をかわしながら適当な本をそれぞれ見繕って椅子に着くと、すぐにお互いを忘れて本へ没頭する。
しばらく文字の世界で楽しんでいると不意に隣で吹き出す音がして、思わずライチはそちらを見遣った。
「……どうした?」
体を本に伏せて震えているキーコに抑えた声で問いかける。さすがの彼女も場所を弁えているのか、爆笑だけは避けようとしているようだった。ふるふると震える手で大丈夫だと示してくるが、体勢は変わらずだ。余程ツボに入ったのかと気になって本を引き摺り出して題を確認する。──『古今東西、世界の荒くれ神』。ライチの興味をあまりそそらない題である。
これのどこに爆笑の要素が、と首を捻っていても解るはずがない。そもそもキーコとライチでは何もかも通じないことの方が多いのだ。ライチは早早に思考を放棄した。
未だに震えているキーコに本を返し、さあもう一度と自分の選んだ本に没頭しようとしたが、できなかった。隣が気になって仕方ない。
「おい、キリコ。いつまで笑ってるつもりだ」
一度笑い始めると止まらないのはこの数年の付き合いでよく知っている。しかし今回はあまりに長い。
「っいや……悪、っいっひひひひ……」
そしてこの返事である。ライチは溜息を吐いた。
「っ? どうしっ、たん、ライチ? ふっ」
「いい加減笑い止め。……お前がうるさくて仕方ない。出るぞ」
立ち上がって選んだ本を抱えたライチをきょとんと見上げた(それでも笑いは止まらないようだ)キーコに問われ、ライチはぶっきらぼうに答えた。本当は図書館で全部読んでしまいたかったが背に腹は変えられない。先程から司書の視線が立ち並ぶ本棚を越えて突き刺さっていた。あの司書は耳聡い上に口煩いのだ。捕まってお説教を聞かされるのは勘弁してほしかった。
「悪い、なっふひっ、あ、ちょ、待っ」
そうして二人で本の貸出処理を何とか終えて、つい一時間前に浴びた陽を再び浴びていた。
「ところで、キリコ」
「キーコと呼べよ」
「なぜあんなに笑っていたんだ?」
「ああ、あれね」
ようやく笑いが収まったらしいキーコとお決まりのやり取りをして、気の済むまで図書館に居られなかった苛立ちを含めて疑問をぶつけると、キーコは借りてきた『古今東西、世界の荒くれ神』をぽんと叩いた。
「これに、私の母親が載ってたんだよ。いやあ、あんまりな言いようだから耐えきれなくてな」
悪かった、と珍しく謝ってくるキーコだったが、ライチは唖然として聞いていなかった。
「は?」
「ん? どうしたんだライチ」
「それに?」
「うん?」
「お前の母親が?」
「載ってたけど、それがどうかしたのか?」
当たり前のように返して訝しげにキーコはライチを見ている。
「……お前の母親は、『精霊』じゃなかったか?」
それは有名な話である。何せ、入学時の組分けで「精霊の娘だ」と高らかに宣言して思い切り放電したような奴なのだ。その後もずば抜けた魔力と魔術センスを披露して、僅か三ヶ月で教授陣に匙を投げさせ問題児中の問題児として名を馳せた奴なのだ。そして何より、悲しいかな、ライチ自身がそのちからの端々を学内で最も目にしてきた。入学して何があったわけでもないのになぜか彼女に気に入られてこれまで何だかんだと付き合ってきたのだから、当然と言えば当然のことだった。
そう、だから、彼女は精霊の娘のはずである。神の娘ではなく。
そんなライチの問に、事も無げにキーコは答えた。
「精霊だよ。なんだ、神として扱われてるのが気に入らないのか? 精霊だって神の一種だろ。まあ、私の母親は精霊にしちゃ割と古参だし、しぶとく現世に留まってるし、やることなすこと派手だから、この著者は神と勘違いしたのかもな。……あ、これよく見たら百年も前のやつじゃないか」
そりゃあ仕方ないなあ、とキーコは笑った。その隣でライチは何も言えずに固まるしかなかった。
「ひゃくねん」
「おう。ほら」
見せられたページには確かに百年前の日付が載っていた。題を見た時に古い本だなとは思ったが、なるほどと納得する。しかし。
「お前の母親は、一体何年生きているんだ?」
「え? うーん……まあ、五世紀くらいは確実かな」
五世紀。──五百年。
「……それくらい生きるのが普通なのか?」
「んー……何て言うかな、難しいんだが……。そもそも精霊の定義が私と君で違う気がする」
「定義?」
「うん、まあ、そこから話すなら、こんなとこじゃなくてどこかで落ち着いて話そうぜ」
長くなるから、というキーコの言葉に素直に頷いて、ライチはキーコについて歩き出した。すぐに森へ向かっていることに気付いて、問う。
「聞かれたくない話なのか?」
「何が?」
「これからする話だ」
いや、と短い否定だけが返ってきた。それから少し間が空いて、のんびりとした声が呟いた。
「ただ、ゆっくりできる場所に行きたいだけさ。ほんとに長くなるからね」
*
「じゃあ、まず何から話そうか」
ここにしようと腰を落ち着けたのは、森に入って少し歩いた空地だった。鬱蒼と茂る木々がほんの僅か途切れ、陽光が差し込んでいる。芝が広がっていて、小さな白い花が群をなして咲いていた。確かに長話をするにはちょうどよい場所だった。
木の根元にどさっと座り込んだキーコの向かいにライチも座る。何から、と言われてもこちらは何一つわからない。だから素直に答えた。
「お前に任せる。俺は何も知らないからな」
「ふむ」
そうキーコが頷いて、少しの沈黙のあと。
「ライチ、一つ確認しておきたいんだが、君の中で『精霊』とは一体どんなものだ?」
急な質問に戸惑いながら、これに答えないと話が進まないことを何となくライチは察知した。頭をフルに回転させて、何とか意見を纏めあげる。
「まあ、なんだ、……とある自然に人格が宿ったとか、そんな風に捉えているが」
「なるほどね。……ふうん、そうかそうか」
また頷くだけで黙り込んでしまう彼女をライチは何とも言えない気持ちで見ていた。今彼女が何を考えているのか、普段以上に解らなくて困惑していた。
程なくしてキーコが口を開いた。
「まず、ちょっと訂正しとこう」
「訂正?」
「そう、訂正」
「何の」
「君の『精霊』の定義」
「そうか」
「そうだ。まあ、学園に精霊を研究している教授はいないし、講義もなければ書籍もほとんどない。だからこういうズレはある程度は仕方ないんだ。気を落とさないでほしい」
「回りくどいな」
「んん? 君が聞く耳を持たなければ、これから私が話すことは無意味だからね、保険だよ、保険」
「そうか」
ひょいと片眉を上げたキーコに、続けてくれとライチは告げた。彼女がこうも念押しするのは初めてだったから、つい茶茶を入れてしまっただけだ。話の腰を折る気はなかった。
「うん、まあそれでだな。君の言ったことは大方間違いじゃない。確かに精霊には人格がある。自然現象から派生したものに、人格が宿ったと言って差し支えはない。正しくは、人格『めいた』ものだけど」
「『めいた』?」
「精霊は人じゃない」
「それは当たり前だろう」
ライチの返答に、キーコは一つ溜息を吐いた。
「当たり前と、ほんとうに思っているか?」
「? 何が言いたいんだ」
「例えばだ。とある精霊がいたとしよう。そいつがそいつを信仰する人間を放って、別のところに行ったとする。……どう思う?」
「どうって……酷いやつだとしか」
「それなんだよ」
「は?」
「酷いやつってどうして思ったんだ、君は」
「それは……自分を信仰して、頼っていた人間を無責任に放り出すなんて、普通に考えて酷いだろう。残された人間はどうなる」
至極まっとうな意見をライチは述べたつもりだったが、キーコはお気に召さなかったらしい。眉間に少し皺が寄っていた。
「あのな。その酷いっていうのは人間の都合だ。精霊に人格を認めて、人間と同じだと考えた、人間の勝手なんだよ」
「……どういうことだ?」
「精霊は元元自然現象だ。例えば雷、火、水。それに派生して、火山、湖。風や雲、樹木もそうだ。ここまでは?」
「わかった」
「じゃあその自然現象は、人がコントロールできるようなものか? そもそも、ひとつところに長く留まっているようなものか?」
「……いや。人間の手では、到底できない。それに、永遠に留まることは、まずないな」
「なぜ?」
「寿命がある。火山にしろ、湖にしろ。樹木や岩も」
「他には」
「常に流動する性質を持ったものがある。雷、火、水、あとは……風や雲か」
「よろしい。さて、そこで質問だが、そういう自然現象に、人間が言うところの『人格』が宿ったとして、元の性質が変わるだろうか?」
「無理だろうな」
「それに対して『酷い』だの『勝手』だのと言うのはどうだろうか? 況してや責任、無責任を問うことは?」
「……お門違いとしか、言えんな」
「そういうことさ。『そこにあるだけ』の現象に対してああだこうだと文句を言っているようなもんなんだよ。精霊は派生した現象が移り変われば変わっていく。そういうものだから」
「だから、人格『めいた』もの?」
「うん。精霊は人じゃないからね。だからこちらの常識が通じない。モラルもだ」
「……難しいな」
「すぐに解れとは言ってない。ゆっくり考えればいいよ」
からからと笑うと、キーコはふと息を吐いた。ライチもつられて息を吐いて、空を見上げる。青い空にぽこぽこと白い雲が浮いているのをぼんやりと見て、一つ疑問が浮かんだ。
「キリコ」
「キーコと呼べよ」
「精霊は、そしたらどうやって生まれるんだ」
「ああ」
そのことか、と呟いてキーコは手元の草を弄った。うーん、と唸っているところを見るに、また考え込んでいるのだろう。纏まるまで待つか、とライチは再び空を見上げた。
「上手くは言えないんだが」
キーコがそう口を開いたのは、十分も経った頃か。はきはきと簡潔に話す普段とは違い、随分迷っているように彼女は言葉を続けた。
「私の母親は、とある雷雲で生まれた。次次と雲の中で生まれる雷を一度も落とさず、ずっとその胎内に溜め込んで、一千年、空を彷徨っていた雷雲だったらしい。……どこまでほんとかは、もう判らんが」
ぶちっと千切った草を掌に乗せて、それを見つめながら、キーコはまた言葉を探しているようだった。
と、パチンと小さく電気が弾けて、キーコの掌の草が浮いた。草をふわふわと浮かせたまま、キーコは言った。
「その雷雲が、初めて雷を落とした、その時に、私の母親が生まれた。雷雲が溜め込んでいた雷は、全て私の母親を形作るのに使われ、そして雷雲は私の母親を産み落とすと同時に、跡形もなく消えたという」
「……つまり、巨大なエネルギーを溜め込んでいたから、精霊が生まれた?」
「うーん……」
キーコは歯切れ悪く唸る。彼女にもそこはわからないらしい。掌の草は、パチン、パチンと弾ける電気に踊らされたままだ。
「私の母親に関して言えば、そうかもしれない。だが、他の精霊では条件が違った」
「他にも知っている精霊がいるのか?」
驚いて訊ねれば、キーコも驚いた顔をして返してきた。
「知ってるさ、そりゃ。だって私が生まれてから十五年くらいの間、育ててくれたのはオークの精霊トゥーヤタだしな」
「へえ。……いや、ちょっと待て」
「なんだ、どうした」
「十五年?」
ライチは現在十六だ。目の前にいるキーコもライチと同い年のはずである。……生まれてから十五年とは、どうやっても計算が合わない。母親以外の精霊を知っていることも充分驚きだった(現代において精霊はほとんど人前に姿を現さなくなった、それで研究している学者も精霊について書かれた本も少ないのだ)が、それよりも早急に解決しなければならない問題だ。
「……キリコ」
「だからキーコと呼べよ」
「お前、今いくつなんだ?」
「うん? んー、生まれてから大体五十年くらいかな」
五十年。ごじゅうねん。
──半世紀。
さらりと告げられた時間の長さを掴みかねて、ライチはキーコをまじまじと見つめた。
「……冗談だろう?」
「こんな下手な冗談言うかよ。事実だ」
「…………」
「ま、これはこの学園じゃ園長と副園長くらいしか知らないから無理ないな」
「……なんで」
「他の教授は知らないか? 考えてみろよ、外見十二歳のガキに『私あなたと同い年なの』って言われて授業受けられてみろ、やりにくいことこの上ないわ」
「それはまあ、そうだが」
「それに、私は五十年生きてるって言っても魔法のことは無知だ。ちゃんと学びたかったから、言わない方が好都合なんだよ」
思わぬ告白に、ライチは目を見開いて再度キーコを凝視した。あれだけのセンスを見せつけておきながら、無知だなどとどの口で言うのか。
その疑問を的確に汲み取ったらしい彼女は苦笑をこぼした。
「私はな、ライチ。母親は精霊だ。それも悪名高き雷の精霊サラギャヤだ。だけど父親は、その辺にいるただの魔法使いなんだよ」
「……それは、知らなかった」
「話してないからな。私が父親に会ったのはたった一度きりのことだし、育ての親のトゥーヤタは精霊で魔法のことはほとんど知らなかった。教わる環境がなかったんだよ。ついでにいうと、父親はもう死んじまってる。魔法使いといっても寿命は人間と変わらないし、不死にさして興味があるわけでもない、平々凡々な男だった。同じく魔法使いの妻がいて、娘が二人。どちらも魔女として可もなく不可もなくな存在で、今は結婚して子供も孫もいる」
ライチは口を挟まないでじっと聞いていた。キーコの掌の草は、未だにパチン、パチンと弾けている。
「一度きりの出会いは、私が父親の家に行ったときのことだ」
パチン、とまた小さく火花が散った。
「父親はまだ若く、新婚だった。妻の腹に子供が宿ったばかりだった。……私が生まれて五年くらいの頃だったな、確か」
「そうか」
「うん。まあ当然、二人とも驚いて大騒ぎさ。私は別に、二人の仲を裂きたいわけじゃなかったから何とか説明して落ち着かせて、んですぐに帰った」
「……驚いた?」
「そう、驚天動地の驚き具合だったよ」
「なぜそうなる? お前は父親と母親の同意の元に生まれたんじゃないのか?」
朴念仁と揶揄され、仙人のような扱いを受けているライチだが、彼も年頃の男児である。どうすれば子供ができるかくらいは知っていた。だからこその質問だったのだが、キーコはけらけらと笑ってそれを否定した。
「残念ながら、私は普通の人間のように生まれてきたわけじゃないんだ」
ここからはちょっと下世話な話になるけど、と前置きをして、彼女は話し始めた。
「まず、私の母親は性交しない」
「いきなりだな」
思わずライチが突っ込むとキーコは肩を竦めた。
「一番大事なことだからね」
「そうか。……そうか。続けてくれ」
「君が話の腰を折ったんだろうが。……で、まあ、どうやって子供を作るかっていうと、これが私もよく解らなくてな。母親曰く、そのオスの精をもらって孕むらしい」
「精?」
「なんか、いいオスからはそういうものが立ち上ってるんだと。何がいいのかはさっぱりだ。ちなみにこの前会った時は、エジプトだかにいて、そこの牛にいいのがいるとめろめろだったな。紹介されたけど、私にはただの牛にしか見えなかった」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。……牛?」
「そう、牛」
いやあ、我が母親ながらほんとうに意味が解らん、とぼやくキーコ。ライチは今の話を整理するのにいっぱいいっぱいだった。
「確か孕んだのはオスだったとか言ってたなあ。これで生まれたらまた弟が増える」
「なあ、キリコ。牛という点にも突っ込みたいところだが、それより、お前の母親は一体どうなってるんだ」
「キーコと呼べよ。なんだ、まあ、言ってしまえばクソビッチ? 自分がいいと思えば相手がどんな生物だろうが関係なく子供を作る阿波擦れだな。さっきの牛もそうだけど、他に挙げるなら馬、兎、鯨、鮫、岩の精霊や湖の精霊、雲、風とかの無機物もあったな」
身も蓋もないキーコの言いようにライチは頭を抱えた。脳がぐらぐらと揺れているようだった。人間のモラルにはもちろん、魔法使いのモラルにもキーコの母親のようなものはない。常識が違いすぎる、と唸れば、そりゃ私の母親がおかしいだけだから安心しろ、と妙なフォローが入った。
「違う、そうじゃない、そういうことを言いたいんじゃない」
「じゃあなんだよ」
「……上手く言えない」
「ふうん? まあそんな母親で、たぶん見目がよかったとかそんな理由で父親の精を勝手に吸って孕んで、で、生まれたのが私ってわけだ」
それではキーコが訪ねたときにその父親の家が仰天したはずである。覚えのない子供に「こんにちは、私あなたの子供です」と言われて狼狽しない方がおかしい。
「お前の父親に俺は同情する……」
「私もだ。あんなに申し訳ないと思ったのは後にも先にもあの一回だけだよ」
「ちなみに、どうやって場を収めたんだ」
「よく覚えてない。が、とりあえず父親の潔白だけは証明して帰ったよ。奥方のヒステリー具合たるや……思い出したくもないくらいの恐ろしさだったからね」
ぶるりと震えるキーコに応じて、掌の草が跳ねた。珍しい、と思いながらライチがそれを笑えないのは、極稀に告白してくる女子生徒の中にそういう気のある輩がいるからだ。女は怖い、という初めての共通認識がライチとキーコの間で生まれた。
「ところで、さっき牛とか言ってたが」
「言ったね」
「生まれてくるのは牛なのか? それとも精霊なのか?」
「オスって言ってたから、牛の姿だろうな。でも普通の牛ではないことは確かだ。たぶん人の言葉を解すし、寿命も普通の牛より何倍も長い。生まれて人間の元に放り出されれば、神として崇められてもおかしくはないな」
「そうか……。だがなぜ、牛の姿だとわかるんだ?」
「オスだから」
「よく解らん」
「うーん、えっとだな、生まれてくる時に、その性で姿形が決まるんだ。オスなら父親の姿形に似るし、雷の精霊としての性質はそんなに強くない。逆にメスなら母親の姿形に似て、更に雷の性質を強く受け継ぐ」
「なるほど。じゃあお前は」
「母親にこれ以上なく似て生まれたのさ。それに母親は人型の精霊だ。父親が人間、魔法使いということもあって、尚更性質を受け継ぎやすい形で生まれた。父親に似ているところを探す方が難しいな」
「人間、という部分くらいか?」
「それも怪しい。……これは憶測だが」
バチン、と大きな音がして、遂にキーコの掌の草が炭へ変わった。その炭をくしゃりと握って、キーコは言った。
「たぶん、将来私は精霊そのものになるんだろう」
ライチがその言葉を理解するのに、たっぷり三分かかった。
「どういうことだ?」
情けなくもそれしか口にできなかった。キーコはまたぶちぶちと草をむしりながらぼんやりと答えた。
「そのままだよ。何となくの予想だが、当たっていると思う。……年を追う毎に、自分の雷の性質が強まってきているのに最近気付いて、それで、そうなる理由をいろいろ考えた。その結果、私自身が母親にあまりに似ていることも含めて、そうなんじゃないかという結論に至った」
「……そうか。何年くらいで精霊になるのかとかは、予想できているのか?」
ちらりとライチを見て、キーコはむしった一掴みの草を灰に変えた。バチンと弾ける音が響いた。
「二十年から三十年くらい、と見ている」
「そうか」
さらさらとキーコの指の間から流れていく灰をライチは見ていた。
精霊になる。それはどういうことなのか、ライチにはよくわからない。しかし、確実に言えるのは、自分は彼女より先に死を迎え、彼女は長い長い時間を生きていくということだ。もしかすると、母親のように何世紀にも渡って生きていくのかもしれない。
「ま、ほんとのところは母親に訊いてみないと解らんけどな!」
明るい声に、ライチは顔を上げた。にひ、と常と同じ人の悪い笑みを浮かべるキーコに知らず溜息が出る。立ち上がるキーコに続いてライチも腰を上げた。
「まだ訊いてないのか? お前自身のことだろう」
「まずどこにいるかもわからんような阿波擦れ女を探すところから始めなきゃならないんだ。しかも探し当てたとこでその場に行けばもう別のとこに移ってることも稀じゃない」
きょうだいたちに手伝ってもらってもろくろく捕まりやしない、と嘆く彼女にふと笑いが込み上げた。ふは、と漏らせば途端に雷色の瞳がギチリと見据えてくる。
「君にも手伝わせようか? ええおい、ライチよ」
「遠慮させてもらおう」
両手を挙げて降参を示しながらライチは城へ帰ろうと歩き出した。いい加減、日も暮れてきた。不服そうな顔のまま、キーコも夕食の時間を気にして足を踏み出した。
連れ立って歩きながら問いかける。
「ところで、お前のきょうだいとやらは何人いるんだ?」
「さあな。ちゃんと数えたことはないけど、兄が六百くらい、姉が二百くらい、弟は百、妹は五十くらいじゃないか?」
「ほんとうにどんな体をしてるんだ……」
「おい、どうやら人間換算しているようだから言っておくが、私の母親は孕んで三ヶ月経たずに産むからな」
「?!」
本日何度目かの目を見開いたライチに、にやりと笑いかけてキーコは先を行く。そしてくるりと振り返って、大きな声でこう言った。
「私の母親は精霊だぞ? そんじょそこらの常識が通じるわけないだろうが!」
早くしろ、夕食に遅れる。そう続けて急き立てる彼女に追い付き、並んで、ライチは目を白黒させて、それでも楽しんでいる自分をはっきりとわかっていた。
ほんとうに、彼女といると飽きるということがない。
「そういやライチ、今年スノー・グローリーに気になる子がいるんだ」
「ほう? どんな」
「一人はお金持ちのお嬢さまで、成績優秀で何不自由ないはずなのになんかつまんなそうにしてる子」
「お前はもう少し言いようを覚えた方がいいんじゃないか……?」
「ドラゴンが使い魔らしいぞ」
「おもしろそうだな」
「君も大概現金だよな。で、もう一人、なんと私と同じ名前の女の子が中等部に入ってきたそうだ!」
「俺はその子に同情する」
「失礼な。……でだ。その子、物凄く優秀なんだと。会ってみたいなあ」
「そうだな」
「とりあえず、どこかで機会を作って必ず会うぞ」
「ほどほどにな」
「もちろんだ」
「どうだか……」
ぽんぽんと軽口を叩きあいながら、二つの背の高い影はゆっくりと城へ戻っていった。