禁域騒動 - 前

 喘鳴が夜の森に響く。足元で小枝が折れる。小石を蹴る。痛みが鈍く爪先に残る。動物の声はない。静寂。耳が研ぎ澄まされる。
 その全てが、今現在の三人にとってどうでもよかった。そんなことに振り分ける神経はなかった。ただひたすら、背後から追ってくる化け物を振り切ることに全力を注いでいた。
 なぜ、とマキナは唇を強く噛む。なぜこうなった。何がいけなかった。
 しかしそんな余裕はすぐに霧散する。前を走る後輩二人を庇い、自分の知りうる限りの強烈な魔法を背後に撃ちながら、とにかく走る、走る、走る。森から出さえすればこちらのものなのだ。出口を目指して足を動かした。
 ごおお、と化け物が吼えた。近い。近い。その咆哮が近い。恐怖に肌が粟立った。
 その耳を劈く咆哮に混じって小さくキィィという声が聞こえる。きっと使い魔のドラゴンだ。ポリスとキーの使い魔と共に応戦してくれているのだろう、だが何とも頼りない。当たり前だ、まだ子供なのだ。成獣なら問題なかっただろうが、荷が重すぎる。
 いよいよ咆哮が迫ってきた。これまでかと腹を括り、振り向かず走れと前の二人に声をかけようと、した、その、矢先。
「っひ、ま、マキナ先輩っ」
「っ、は、なんだ、あれ……」
 前方にも、影が。
 マキナの脳裏に、最悪の二文字が過った。追ってくる化け物だけで最悪だったのに、これでは地獄に落とされたも同然だ。
 何度目かもわからないなぜ、を繰り返す。なぜ、なぜ、なぜ!
 あまりの事態に竦んでいたマキナは、だから、後輩の状態にまで頭が回らなかった。
「な、なに、何なのほんとに何なの嫌だこっち来ないで嫌、嫌、嫌、ああああああああああああああああああああ」
「! 待ちなさいキー!」
 パニックに陥ったキーが放った風の魔術は幸か不幸か化け物には当たらず、その手前の大木を直撃した。しかしその威力は中等部三年にしては恐ろしいもので、樹齢百年は下らないと思われる大木をいとも容易く木っ端に変えた。
 しかし、木っ端を浴びながらマキナは胸を撫で下ろした。化け物に当たらなくてよかった、これ以上あれらを刺激したら間違いなく自分たちの命はなくなっていた、と。そしてキーが起こした風に目の前の化け物が戸惑っていることを感じ取り、今ならまだ逃げられる、と希望を持った。
 木っ端が舞う中で、キーの体が崩れ落ちるまでは。
「キー先輩っ」
 ポリスが駆け寄り、ぐったりとしたキーの体を抱えあげる。頬を叩いて何度も名前を呼んだ。マキナも駆け寄りたかった。常日頃気にかけてかわいがっている後輩の一人なのだから、当たり前である。だが、それはできなかった。それどころではなかった。
(──声が)
 声が、近い。近すぎる。先程まで。離れていた咆哮が。すぐ背後に。他に聞こえていた声が。聞こえない。使い魔たちの声が。声が。どこにも。
 どこにも、ない。
 がたがたと震える体を叱咤して、マキナは、振り返った。
「──っ」
 ヒュウ、と喉が締まった。
「……ポリスくん、ポリス」
「キー先輩、キー先輩っ! 起きてください!」
「ポリス!」
「キーせ……っマキナ先輩?」
 どうしました、という疑問はポリスの喉奥に消えた。
「あ、あ、あああ」
 上擦った声が上がる。それに被さって、重いものが地を這う音が低く響いた。ズズ、ズルゥ、と耳を塞ぎたくなる音と共に、ずっとマキナたちを追いかけてきた化け物が、姿を現した。
 それは、大きな蜘蛛だった。胴だけで象よりも大きく、暗闇よりもなお黒く聳えている。眼は灯りもないのにぎらぎらと輝いていた。カチカチと鳴っているのは牙か、爪か。毒も持っているのかもしれない。いずれにせよ、人間程度が相手ならば一撃で死に至らしめるだろうことは想像に難くなかった。
「ポリスくん……」
 からからに乾いた喉から、マキナは声を絞り出した。
「逃げなさい」
 化け物の咆哮が轟いた。応えるようにマキナたちの進路を塞いだ化け物も吼えた。きっとそちらも巨大蜘蛛だ。
「……っ」
 マキナは杖を構えた。来る。草を分け、地を抉り、巨木を薙ぎ倒し、死の塊が、一直線に。
(これが、走馬灯とかいうやつ?)
 これまでの人生が物凄い早さで脳内を駆け巡っていた。初めて魔法を使えると知った時、石化させた悪魔たち、それを喜んだ両親、ドラゴンとの出会い、この学園に足を踏み入れた瞬間、──そして、今大切に思っているひとびと。
 ぐっと杖を握る。きっと自分は死ぬ。だけどただで殺されるつもりはない。できる限り強化魔法を使って、石化呪文をここ一帯に放ち、自分もろともに石化してやる。
 だから後輩たちを巻き込むわけにはいかない。ポリスは逃げたか、彼はああ見えて力持ちだからきっとキーを抱えて逃げてくれたはずだと背後を一瞥して──マキナは言葉を失った。
「ポリスくん……?」
 どうして、まだそこに。
 ポリスはキーを抱えたまま、気絶していた。
 化け物が距離を詰めてきている。わかっていても、だらりと力を失った腕は上がらなかった。
 ──死ぬ。
 マキナの視界には既に何も映らない。
 ──もうどうやっても逃げられない。
 空を裂いて、爪が迫る。
 ──ここで、みんな。
 しぬんだ。
 呟いて、目を伏せた。
 ゴオッ。
 瞼の向こうで、花が散った。

「……?」
 何かがおかしい、と瞼を持ち上げたのは死を悟った直後。いつになっても爪も牙もやってこないからだった。
 そして風が吹き荒れる中、マキナは瞠目した。
「私のかわいいかわいいかわいいかわいい後輩に手ェ出すたァいい度胸じゃないか、ああ?」
「落ち着けキリコ」
「うるさい黙れモヤシ野郎この状況で落ち着けるお前はあれかバカなのか鈍感なのかこのモヤシ野郎」
「なぜモヤシ野郎を二回言った……」
 まあいいと溜息を吐く後ろ姿と、怒りと殺気を全身から撒き散らす後ろ姿は。
「ライチ先輩、と、キーコ先輩……?」
 マキナの呼び掛けに振り向いたのはライチだけだった。キーコからは小さく火花が散り始めていた。
「無事か、マキナ」
「え、あ、はい」
「そうか。ならいい。とにかくここを離れるぞ。キリコが本格的にブチ切れると俺たちまで巻き込まれる」
 そう言うと、どうしてと問う間も与えずライチはマキナを引っ張ってポリスとキーの傍らに膝をついた。
「ポリス、起きろ」
 平生と変わらない口調でポリスの肩を叩く。三回繰り返してポリスが目覚めないと知るや、杖を取り出して躊躇なく気付け呪文を放った。
「う……」
「ポリス、逃げるぞ」
「え、ライチ先輩? どうし」
「後にしろ。そろそろ金縛りが解ける。さっさと立て、死にたいのか」
 現状を把握できず目を白黒させるポリスを立たせ、ライチはキーを抱き上げた。そして。
「う、わっ」
「行くぞ。ポリス、お前は走れ。俺を見失うなよ」
「え、あ、え?」
「タカ! 案内を頼む!」
 頭上に向かってライチが叫ぶのと同時、背後からバァンッと雷電が飛び、眼前の巨大蜘蛛がぶるりと身を振るって金縛りを解いた。
「このクソ蜘蛛がァ! 八つ裂いて土に還してやるよ!」
 キーコの怒声と共に、雷が落ちた。周りの巨木を巻き込み、薙ぎ倒し、地を穿ち、巨大蜘蛛を圧倒する。火花が森を昼のように照らし出した。
 ライチは脱兎の如く駆け出す。呆然としていたポリスを空から降りてきたタカが突いて促す。そのままタカは鋭く鳴いて先導に立った。
 マキナはそれをライチの腕に抱えられたまま、ポリスと同じように呆然として見ていた。
(え? ええ? えええええ!?)
 自分を抱えるのは紛れもなくライチである。儚げな容姿でファンクラブまで結成させてしまう、あのライチである。キーコからモヤシモヤシと日頃言われているあのライチである。この痩身のどこに、女子二人を抱えて森を走り抜けるだけの力があるというのか!
「あのっ、ライチせんぱっ、おもっ、重い、っですっ、からっ、お、降ろしっ」
「喋るな舌を噛む」
 さらりと言い放ち、ライチはタカについて走り続けた。時折、ごにょごにょと呟いてはキッと後ろを睨む。その度に轟音が響く。何度目かで、マキナは気付いた。
(杖なしで、闇の魔術を……っ)
 一体どれだけの才能と、そして魔力を持っているのか。こんな状況にも拘らずマキナの心に黒黒としたものが燃えた。
 ライチの早い心音が聞こえる。タカの鳴き声が聞こえる。ポリスの足音も聞こえる。遠くから雷の落ちる音が響いてきた。キーコの怒りがまだ収まらないのだろう。きっとあの辺りは更地になっているに違いない。
 気付けば、随分と平坦な道に出ていた。出口が近いのだ。もういいです、降ろしてください、とライチに訴えようと口を動かしたが、力が入らなかった。
 頭上の影が途切れて、星が見えた。ようやく抜け出たのだ、森を。
 ──ああ、そう言えば、自分たちを守って戦ってくれた使い魔たちは無事だろうか。
 そんなことを考えて、マキナは意識を手放した。
12.11.29. 初出
13.01.20. up

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